로그인ケイルの宣言が黒曜宮の大広間へ響き渡ったあと、月教会の使節団は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
歴代皇后が戴冠式と宣戦の儀でのみ身につけてきた黒金の外套を、ケイルは評議会の決議も戴冠の儀式も経ず、エララの肩へ掛けたのである。それは単なる愛情表現ではなく、彼女への攻撃を皇室と帝国への攻撃として扱うという、政治的な宣言でもあった。
集まった民衆の間から歓声が上がる一方、貴族席では困惑を隠せない者も多かった。セヴラン司教は驚きを押し殺すように目を伏せたあと、再び穏やかな笑みを作った。
「陛下が一人の女性をどれほど大切になさっているかは、よく分かりました。しかし、皇后の外套を掛けたところで、神の裁きから逃れられるわけではございません」
「逃げると言った覚えはありません」
エララは重い外套の前を整えながら答えた。
「私は七日後の公開審問へ出席します。ただし、先ほど申し上げた条件を書面に記
第45話 ルーマに交わす帰還の約束「ルーマも行く。置いていかれるのは、もう嫌」小さな手が旅行鞄の取っ手を強く握り、白くなっていた。エララはすぐに説得の言葉を探したが、どれもルーマの恐怖へ届かない気がした。危険だから連れていけない。皇城にいれば安全だ。すぐに帰る。大人が子どもへ告げるには正しい言葉ばかりだったが、置いていかれる側にとっては、自分だけが何も決められないという事実を丁寧に言い換えているだけかもしれない。ケイルが一歩前へ出ると、ルーマは旅行鞄を守るように背を丸めた。「鞄をこちらへ渡せ」「いや」「王都には連れていけない」「いや!」ルーマの声が、部屋の壁へ強く跳ね返った。声を取り戻したばかりの彼女は、まだ大きな声を出すことに慣れていない。自分の叫びに驚いたように目を見開いたが、引き下がりはしなかった。むしろ、喉が痛むのも構わず、これまで言えなかった言葉をすべて吐き出そうとするように続けた。「ルーマ、邪魔しない。静かにするし、ごはんも残さない。馬車の中で泣かないし、ちゃんと言うことを聞く。だから、いっしょに行く」「言うことを聞くなら、ここに残れ」ケイルの返事は早かった。ルーマの顔が強張り、目に涙が浮かんだ。それでも泣くものかと耐え、唇を噛んで父親を睨み返す。「ケイル」エララが名を呼ぶと、彼は自分の言葉がルーマを傷つけたと気づいたらしく、眉間へ深い皺を寄せた。しかし、連れていけないという判断まで変えるつもりはない。優しく言い直す方法が分からず、黙り込んでしまった。「まず、座って話しましょう」エララは絨毯の上へ膝をつき、ルーマと目線の高さを合わせた。鞄を取り上げようとはせず、手が届く距離で待つ。「大人だけで決めて、あとから言い聞かせるようなことはしません。ルーマがなぜ一緒に行きたいのか、先に聞かせてください」「言った。置いていかれるのが、嫌」「ええ。ほかにもありますか」ルーマは黙ったまま俯いた。寝台の
第44話 帰るのではなく、迎えに行くエララが結論を出したのは、王妃の手紙を受け取った日の夕刻だった。それまでの数刻、彼女は誰とも相談せずに決めようとはしなかった。ティルダを診療棟まで運んだ国境兵から経路を聞き、ローデンから王都までに必要な日数と護衛人数について説明を受け、ヘルマンとエステルには自分と同行者の体調面での危険を尋ねた。さらに、王都へ行かずに月の婚礼を阻止する方法がないか、ケイルや竜術師たちとも検討した。西塔の月時計だけを遠くから破壊する案は、最初に却下された。時計は王都全体へ張り巡らされた古い防護結界の中心でもあり、構造を確かめずに壊せば、月の婚礼を止めるどころか、王都を守る結界まで失われる恐れがある。セランの刻印を利用して祭具へ干渉する案も出たが、王妃の誓いを含む多くの断片が人質のように組み込まれているため、強引に力を流せば誰の命が傷つくか分からなかった。何より、儀式の日程が前倒しされる可能性がある。安全な方法を探している間に、ルシアンが自分の意思を失い、セラフィナが別の場所へ移されれば、手遅れになるかもしれない。だからといって、焦りだけで王都へ向かうわけにはいかなかった。エララは、必要な情報と危険を一枚の紙へ書き出した。行く理由と、行かない理由。守りたい人々と、巻き込むかもしれない人々。過去の自分なら、左側に他人の命を並べ、右側に自分一人の命を書いたところで、迷うことなく左を選んでいただろう。今は違う。自分が戻らなければ、ケイルとルーマが悲しむ。北の民は、教会へ渡さないために声を上げてくれた。リナやローデン、裁問の場へ薬草を運んだ人々の選択まで、無意味にしたくなかった。エララは紙の中央へ一本の線を引き、その下に書いた。――全員で生きて帰る方法がある場合のみ、王都へ向かう。それは臆病さではなく、これからの自分が守るべき条件だった。夕刻の鐘が鳴る前、皇城の円卓会議室へ主要な者たちが集められた。ケイルの右側にはエララが座り、向かいにはヴァルガス、セレスティーヌ、ローデンが並んでいる。教会の裁問が終わったばかりであるうえ、穀物横領に
第43話 王妃から届いた二通目の手紙銀板から響いた三度の音が消えたあとも、会議室にいた誰もすぐには動かなかった。王都から伸びる黒い糸は、もう見えなくなっている。それでも、扉の外に何者かが立ち、こちらの返事を待っているような圧迫感だけが室内に残っていた。「セランを診療室へ戻せ。刻印の状態を絶えず確認し、本人の許可なく包帯を外すな」ケイルが命じると、二人の兵士が一礼した。セランは退室しかけたところで銀板を振り返ったものの、何も言わずに連れていかれた。昨夜までの彼なら、大司教から呼びかけられたことを恩寵だと受け取っていただろう。今は、あの音が自分を心配する呼びかけなのか、逃亡を防ぐための確認なのかさえ、信じきれなくなっている。ローデンは王都周辺の地図を机へ広げ、国境の監視を増やすべきだと提案した。教会がセランとの繋がりに異変を感じたのであれば、次に何を送ってくるか分からない。使者か、暗殺者か、それとも新たな命令を刻まれた人間かもしれなかった。「検問を強化しすぎれば、こちらが何かを掴んだと教えることになります」エララは地図の北側へ指を置いた。「公開裁問で不正が明らかになった以上、警戒を強めること自体は不自然ではありません。ただし、教会関係者だけを止めれば、セラン司教の証言から大司教へ辿り着いたと気づかれるでしょう。通常の密輸対策として、すべての荷馬車と旅人を同じ基準で調べてください」「時間がかかるぞ」「そのために、通行証を持つ商人と、緊急の医療物資を運ぶ者の確認口を分けます。裁問の影響で薬が不足している地域もありますから、物資の流れまで止めるわけにはいきません」ローデンが頷き、地図へ新しい検問所の印をつけた。ケイルは腕を組んだまま二人のやり取りを聞いていたが、エララが三つ目の指示を口にしかけると、その肩へ手を置いた。「昨夜、眠る前に作戦を立てるのは二つまでと言っていたな」「今は朝です」「屁理屈を覚えたか」「あなたから学びました」「俺は、お前ほど真面目な顔で屁理屈を言わない」ローデンが地
第42話 罪人は何を信じて生きるのか翌朝、エララが目を覚ますと、寝台の脇に置かれた椅子でケイルが眠っていた。背の高い彼には明らかに窮屈な椅子だったが、片方の腕を組んだまま背もたれへ体を預け、もう一方の手ではエララの指を包んでいる。夜のうちに何度か握り直したのだろう。指先には彼の体温がすっかり移り、目覚めたばかりの冷たい手が、その部分だけ温かかった。窓の向こうでは、朝の光を受けた雪が薄青く輝いている。皇城の屋根から落ちた雪の塊が庭石へぶつかり、遠くで鈍い音を立てた。室内の暖炉には火が残っていたものの、薪はほとんど熾火になっており、空気には夜明け前の冷たさが混じっている。エララはケイルを起こさないよう、そっと手を抜こうとした。昨夜は刻印の調査が終わるまで傍にいてくれたのだから、少しでも長く休ませたかったのである。ところが、指を半分ほど引いたところで、ケイルの手が強く閉じた。「どこへ行く」目を閉じたまま発せられた声には、眠気より警戒が滲んでいた。「まだ寝台から下りてもいません。それに、逃げようとしたわけではなく、あなたの手を離そうとしただけです」「俺が眠っている間に一人で動くなら、同じことだ」ケイルはようやく目を開け、エララの顔をじっと見た。焦点が合うまでわずかな時間がかかったものの、昨夜より血色が戻っていると分かると、張りつめていた眉間が少し緩んだ。「頭は痛むか」「もうほとんど痛みません。目眩もありませんし、手足にも力が戻っています」「空腹は?」「少し」「ならば、何か食べてから事情聴取へ行く」エララは上半身を起こし、枕元に置かれた時計へ目を向けた。「開始まで、あまり時間がありません。食堂へ寄っていると遅れます」「食事を持ってこさせる。お前は昨日、朝からまともに食べていない」「裁問の前にパンを一つ食べました」「ひと口だ。しかも、ルーマに半分渡していただろう」「よく見ていますね」「お前に関しては、見ていないと危ないからな」
第41話 刻印に残された声公開裁問が終わってから二刻ほど経った頃、皇城の北棟にある診療室は、薬草の青臭さと消毒用の酒精が混じった匂いに満たされていた。エララは窓際の長椅子に腰掛け、リナが用意した蜂蜜入りの温かな茶を両手で包んでいた。広場では気力だけで立ち続けられたものの、皇城へ戻った途端、手足の芯まで冷え切っていることに気づいたのだ。誓約の糸を見続けた目には鈍い痛みが残り、視界の端には、存在しない銀色の光が何度も瞬いている。向かいに立つケイルは、そんなエララを腕組みしたまま見下ろしていた。椅子へ座るよう勧めても動こうとせず、茶を半分飲むまでは調査を始めさせないと言い張っている。「もう十分に飲みました」「半分にも届いていない」「先ほどから量ばかり見ていますが、私の顔も見てください。倒れそうに見えますか」「倒れそうな人間ほど、自分は倒れないという顔をする。お前の場合は特に信用できない」「以前より慎重になったつもりです」「以前が無謀すぎただけだ。死にかけるまで力を使っていた者が、倒れる寸前で止まれるようになったからといって、慎重とは呼ばない」痛いところを突かれ、エララは反論できなくなった。仕方なく茶へ口をつけると、蜂蜜の甘さの奥に眠り草の苦味が混じっていることに気づく。リナへ目を向けると、彼女は診療器具を並べながら、何も知らないという顔で視線を逸らした。「リナ、これに何を入れましたか」「蜂蜜と、ほんの少しの眠り草でございます。主治医の許可はいただいております」「これから刻印を調べると知っていますよね」「だからこそです。調査が終わったあと、皇后陛下が素直にお休みになるとは思えませんので、先に準備いたしました」「まだ戴冠していませんから、皇后ではありません」「では、陛下が人前で何度も妻と呼んでおられる方、とお呼びいたしましょうか」ケイルが満足げに頷いたため、エララは茶器の向こうへ顔を隠した。リナは真面目な顔を保っているものの、口元だけがわずかに緩んでいる。裁問の最中は張り詰めていた彼女も、エララが無事に
第40話 偽りの番が暴くものかつてルシアンが運命の証として掲げていた、偽りの番の刻印。セラン司教の手首に浮かんだ紋様は、細部まで同じではなかった。ルシアンの刻印が二つの魂を結ぶように装っていたのに対し、こちらは何本もの黒い糸を銀色の枠へ無理やり押し込み、ひとつの印に見せかけている。それでも、自然に生まれた絆には決して存在しない不均衡と、他人の意思を削って形を保つ歪さは酷似していた。エララが見間違えるはずはなかった。一度目の人生で彼女を縛り、二度目の人生でもなお追いすがってきた偽物と、同じ思想から作られたものだった。「その刻印を、どこで手に入れたのですか」エララが尋ねると、セランは反射的に右腕を背後へ隠した。ほんの少し前まで、毒を使った裁問の証拠さえ冷静に否定していた男とは思えないほど、露骨な動きだった。「何のことでしょう。私の腕にあるのは、高位聖職者が神へ忠誠を捧げる際に授かる聖印です。部外者に説明する義務はございません」「忠誠の証であれば、なぜ隠すのです」「肌を人前にさらさないことも聖職者の礼節です。まして、あなたは教会の教義を歪めて解釈し、誓約へ干渉する異端の術を用いたばかりでしょう。私が警戒するのは当然ではありませんか」否定の言葉は滑らかだったが、セランの袖の内側では黒と銀の糸が絶えず蠢いていた。刻印は心臓へ根を張るだけでなく、首筋から頭部へ細い糸を伸ばし、彼が何を見て、何を恐れ、どの言葉を選ぶのかまで探るように明滅している。それは伴侶同士を結ぶ印ではない。誰かを愛するためのものでもなければ、信仰を支えるためのものでもない。刻印を授けた者が、離れた場所から人間を動かすための手綱だった。ケイルもセランの異変を察したらしく、エララの腰へ回していた腕を解くと、彼女を庇う位置へ半歩進んだ。「袖を上げろ」「竜皇陛下といえど、教会の司教へそのような命令を下す権限はございません」「ならば命令ではなく、被疑者に対する要求だ。お前の馬車から毒薬と偽造された裁問記録が見つかり、お前の血で結ばれた強制誓約まで押収された。これ以上、聖職者の立場だけで守られる